・南氷洋航海


白嶺丸による南氷洋航海(Dec. 1991-Feb. 1992)

もう随分前になりますが、石油公団の調査員の一員として(アルバイト)、南氷洋に行って来まし
た。 当時は大学院生(修士課程1年)でした。3ヶ月の船内生活は、日本からシドニーへ飛行機
で飛ぶところから始まり、シドニーを出港~南氷洋を調査~ホバートへ寄港~ロス海を調査~シド
ニーへ帰港という旅路でした。

※ずいぶん前に写真をスキャンしたため、解像度が低いですがご了承ください。

行ったのはロス海といってオーストラリアの南の方、 日付変更線がちょうど南極にぶち当たる辺りです。越冬で有名な昭和基地の裏側にあたります。 左はその時お世話になった調査船「白嶺丸」です。 タスマニア島ホバート寄港中の写真です。もっと大きな船で行くのかと思いきや、全長100m以下の小さい船で、氷山のかけらなんか当たったら沈んでしまうかもと少々不安な船出でした。


写真:南氷洋へむけ航走中の白嶺丸



写真右が私のいた船室です。東海大学の方と相部屋でした。乗船していた学生はほかには千葉大、琉球大から各1名、計4名でした。 この部屋は、エンジンルームの真上なので、 はじめはエンジン音がうるさくて眠れませんでしたが、慣れというのはこわいもんで、 航海終了後は逆に静かすぎて落ちつけませんでした。

あと、4名の学生のうちでは私が一番、調査乗船の経験が薄く、なにかと足手まといになってしまい
ました。悔しい思いと、それでも経験できる喜びの両面で、複雑な思いの毎日だったことを思い出し
ます。

南半球が夏の時に行ったせいか、あるいは周りが海だからなのか、船の上ではさほど寒くはありませ
んでした。外は寒くても、せいぜい氷点下10度くらいでした。ちなみに食事は豪華かつおいしかった
です。(写真はその一例。毎日こうという訳ではありませんよ。)


正月も船で迎えました。写真がないのが残念ですが、ものすごい量のご馳走とお酒でした。船中お
おさわぎでした。また節分などの行事も行いました。変化のない船の生活だからこそ、船の上ではこ
れらのイベントを大事にしていました。


南極大陸です。この年は海氷が少なかったため、これほどまで陸地に近づくことができました。数百
mの断崖絶壁です。草木は当然見あたりません。残念ながら上陸はできませんでしたが、この荒涼とした姿を忘れることはないでしょう。

こちらは氷山です。このような氷山や海氷があちこちに浮いていました。中にはペンギンやアザラシがのっかているものもありました。またひっくり返ってしまったのか、青緑色の氷山もありました。
調査中の船にクジラがよってくることもしばしばでした。アザラシが船の周りをおよいでいることもありま
した(アザラシがあんなに素早く泳げるなんて!)



こちらは白夜のロス海です。ロス海自体は湾になっていることと、巨大な高気圧帯の中にあることも
あり、このように静かですが、そのまわりには2枚目の写真のように、荒々しい波が取り巻いていま
す。(いわゆるRolling Forty)



前述のとおり、オーストラリアには3度寄港しました。シドニーから出港し、タスマニア島のホバートに入港、再び出港し、シドニーにまた寄港いたしました。 右の風景はタスマニア島のホバートです。田舎町で、一緒に下船した船員さんや研究者以外には、日本人を見かけることはありませんでした。 散歩するのが楽しい町でした。土曜日にはマーケットが開かれ、その夜は港のカフェがクラブに変身。大勢の人が翌朝まで楽しんでいました。

左はシドニーでの風景です。シドニーブリッジ近くのロックス。ここは古い街並みを残しているエリアです。シドニーには2回寄港して、のべ2週間滞在しました。シドニーは英国風な趣の残るいい街でしたが、開発の波も激しかった事を記憶しています。その後、2000年のオリンピックを経て、今頃はどのような姿になっているでしょうか?


オーストラリアと言えばカンガルー。 間近に見るとビッグで恐かった。
パンをエサにあげるんですが、両手でもってハモハモと器用に食べます。人間のようでした。

学生時代の初めての海外調査、なにもかも新鮮でした。のちにこれが自分の将来に大きな影響を
与えるとはこのときはコレッポッチも思ってませんでした。